春雨庵と沢庵禅師(はるさめあんとたくあんぜんし)
紫衣事件(しえじけん)<江戸時代・1627年>
上山藩主「土岐頼行」の手厚いもてなし
上山藩主「土岐頼行」は、幕府の囚人となった沢庵を上山で丁重に迎えた。
敬愛する沢庵のため小さくも豪華な草庵を建立。沢庵は春雨にけむる閑静な庵をこよなく愛し「春雨庵(はるさめあん)」と名づけた。
頼行は歌人としての沢庵を慰めるために、領内はもちろん、山形領をはじめ松島まで歌枕をたずねる遊覧の旅を取り計らったりもした。悠々自適の生活をおくる。
沢庵は「上中下三字の説」という政治の要諦を説いた一文を土岐頼行に贈った。これは上(=主君)中(=家臣)下(=領民)相通ずるの心をむねとして政治を行うべきことを諭したもの。
頼行は座右の銘として藩政に当る。上山城主歴代の藩政における黄金時代とも称されるほどの安定した政治を全うした。
沢庵 宗彭 ( たくあん そうほう )(1573-1645)
沢庵 宗彭 ( たくあん そうほう )
『心さえ潔白であれば身の苦しみは何ともない。』
1573〜1645 (天正元年〜正保2年)
【臨済宗の僧】 品川東海寺を創建。タクアン漬けにその名を残した禅僧。
江戸初期の臨済宗の僧。大徳寺に入り、1609年、住持となる。紫衣事件で幕府に抗弁書を提出したことで幕府の怒りを買い、出羽の国(山形県)は上山に配流された。後、許されて京都へ帰ったが、柳生宗矩の勧めにより三代将軍家光が相談役になり、品川に東海寺を興した。詩歌、書画、茶道、武道の知識が深く人柄も優れていた沢庵に徳川家光は感動し、品川に東海寺を建て沢庵に寄与。彼がなくなるまでの7年間に家光は、沢庵の教えを受けるため75回東海寺を訪れた。